PHIMEANAKAS


9月28日

今週のことですが、カンボジア近郊の村で不発弾が爆発、遊んでいた子供達数人が死傷。 不発弾が爆発、というのもなんだかおかしな表現だけれど、どうも、爆弾を見つけた子供達がそれで遊んでいて、落としたか、斧で叩いたかしたはずみで爆発したようです。

カンボジアには、まだまだこんな「眠り」爆弾や地雷が山ほどあって、毎月どこかで人が死んだりケガをしたりしています。

今回大怪我をした子供たちの何人かは兄弟だったのですが、彼らの家庭は重傷の子供達(1人は恐らく助かりません)の治療費を払うのが精一杯で、軽いケガをした子供に破傷風のワクチンを打つ余裕もない、貧農なのです。月の現金収入は約7ドル。破傷風のワクチンは5ドル。父親は村から離れて出稼ぎ中で、電話も何もないところから、まだ子供たちの怪我を知らないそうです。事故を知ったからといって休暇が取れる身の上でもなし、彼の稼ぐ現金がいくらかでも欲しいところですから、敢えて知らせる努力もしていないようですが。

それで、思ったのですが。

今回のアメリカのテロと、カンボジアで「よくある」爆弾の事故、どちらがより悲劇なのか?

より悲劇、という言い方は誤解を招きそうですが。一度に数千人の人々が亡くなる、それも原因はテロ、というのは確かにインパクトが大きくて、多くの人々の悲憤をかうし、国家や宗教の利益思惑を巻き込んだ大事件ですけれど、死ななくてもいい人達が死んでいる事件・事故は、世界の色々な場所で、9月11日だけでなく、毎日のように起こっているはず。

例えば、治療費を払う余裕がなくてむざむざ家族を死なせてしまう方が悲劇なのでは? 

とは思いますが、やはり、強い国家で起きた大きな事件が、報道されるんですよね。 

今回のテロで亡くなった方達、やりきれないとは思うけれど、救援の手が世界から差し伸べられたり、国家あげての報復が行われようとしていたりで、なんだかまだ救いがあるような気もするのです。こう書くと、怒る人がいるとは想像しますが、私見としてはそうなのです。

こちらカンボジアの爆発事件でも、新聞に載っただけマシで、毎月(日常茶飯事的に)ニュースにもならない死亡事故、殺人があって。誰かが死んで、それでおしまいです。

世の中は不公平だし、運というのが人の人生をものすごく左右すると了見はしていますが、こういうことを考えると、その了見を乗り越えてなんだかものすごい無力感にとらわれます。

で、なんだかもーあたしはあたしの生活で出来ることだけやるけんね、という開き直りに到達してしまうわけで。

カンボジア関連のニュースでもうひとつあったけど、次回に。なんだか辛気臭くなっちゃったんで。Baileysを飲んで寝ます。(実はさっき少し飲んだのだが、もう一杯。)

こうして生活というのは流れていくのであります。



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